人間は自然の一部に
なれるだろうか。

⽔、⼟、森。⾃然が⽣命を育んでいる。
⽣命は、やがて⼟に還り、
また次の⽣命の糧となる。
そうやって循環しながら、
⾃然は持続していきます。
⼈間はその循環に、
どう関わっていけばよいのでしょうか。

あらゆる業界でその姿勢が問われるなかで、
建設業界も例外ではありません。
⼈間の環境を整備することは、
地球環境に⼿を加えることでもある。
⼈間にも地球にも、
よい循環を建設できなければ、
建設業の未来はない。

そう考える淺沼組は
「GOOD CYCLE PROJECT」を⽴ち上げ、
新しい素材や技術の開発、
サービスの提供などに取り組んでいます。
よい循環は、淺沼組だけで
つくれるものではありません。
あなたもいっしょに、
よい循環をつくりませんか。

HISTORY

淺沼組の源は元禄時代にさかのぼります。
戦国の武で治める時代から、
平和な文化で治める時代へと変わる中、
五代将軍徳川綱吉の側用人である柳澤吉保は
現代のSDGsなどにみられる思想を先取りするような
すぐれた事業を行いました。
淺沼組はその事業に関わったと考えられています。

川越時代(1694年~1704年)

そのひとつが、循環型農業の先駆けと言われる三富新田開発。環境に配慮した循環型の暮らしの手本として、現代に受け継がれています。
もうひとつが、東京都心で今も美しい景観を残す六義園の造営です。六義園は古今和歌集の和歌の世界を基調とする回遊式の築山泉水庭園。高層ビル群の中で造園時の面影を残し、豊かな自然を守っています。淺沼組の祖である淺沼仁左衛門はそれらの事業に普請方として勤しんだと考えられています。

甲斐時代(1704年~1724年)

将軍の後嗣決定と長年の忠勤により柳澤吉保は甲斐・駿河国への移封し、淺沼仁左衛門も普請方として随伴。甲府城を中心に賑わいと成熟した文化のまちを整備しました。柳澤吉保の子、吉里の時代には父の三富新田開発の開発にならい、内陸盆地で干ばつに苦しむ穂坂台地(山梨県韮崎市)の領民のため大開削工事に取り組んでいます。そこに淺沼仁左衛門も参画し、穂坂台地を肥沃な農地に作りかえました。

大和郡山時代(1724年~1868年)

柳澤吉里の甲府から大和国郡山藩への転封に淺沼仁左衛門も同藩の普請方として随伴。以後、仁左衛門から8代目の淺沼幸吉まで同藩の普請方を務めました。

明治維新後、淺沼幸吉は大和郡山にとどまり、宮大工の棟梁として、奈良付近の名刹寺社を造営し、1892年(明治25年)に大和郡山で淺沼組を創業しました。

淺沼組には、自然や地域の環境とのつながりを
大切にしながら事業に取り組んできた歴史があります。
そういった先人の考えを受け継ぎながら、
地球環境に配慮した
これからのリニューアルの実現を目指し
様々なプロジェクトに取り組んでまいります。

三富新田(さんとめしんでん)
川越藩主となった柳澤吉保が、荻生徂徠の建議を入れ、元禄7年(1694年)から3ヵ年をかけて武蔵野台地の広大な原野(現在の埼玉県入間郡三芳町上富、所沢市中富)で行った畑作地の開拓事業。屋敷地-耕地-平地林が一体となった循環型農業はこの地域を豊かにし、現代まで続いている。
六義園(りくぎえん)
柳澤吉保が元禄8年(1695年)、将軍綱吉より与えられた駒込の地に、7年の歳月をかけ造り上げた回遊式築山泉水庭園。六義園の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文にある「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来。自らも和歌に造詣が深かった柳澤が『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもの。六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園とされ、現在は国指定特別名勝で東京都立公園。
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